曹洞宗について

本山

本山

 曹洞宗は2つの本山があるのが特徴である。この2つの本山を我々曹洞宗の僧侶は「両本山」と呼び、1つは福井県吉田郡永平寺町にある「永平寺」。1244年(寛元2年)に道元禅師が傘松峰大仏寺(さんしょうほうだいぶつじ)として開かれ、のちに吉祥山(きちじょうざん)永平寺と改められた。もう1つは、神奈川県横浜市鶴見区にある「總持寺」。 1321年(元亨元年)に、石川県にあった諸嶽(もろおか)寺を瑩山禅師が諸嶽山總持寺(しょがくざんそうじじ)と改めたのに始まる。その後、明治時代の焼失を機会に横浜市に移転された。

教義

 「正伝の仏法」を伝統とし、「南無釈迦牟尼仏」として釈迦を本尊と仰ぎ、「即心是仏」の心をもって、主に坐禅により働きかける。曹洞宗の坐禅は中国禅の伝統と異なり教義を立てる。即ち「修証一如」(無限の修行こそが成仏である)という道元の主張に基づいて「只管打坐(しかんたざ)」(ひたすら坐禅すること)をもっぱらとし、臨済宗のように公案禅をとる流派も一部にあるが少数である。

歴史

 正治2年(1200年)、京都久我家で生まれた道元は建保2年(1214年)出家し、園城寺・建仁寺で学ぶ。貞応2年(1223年) 明全とともに博多から南宋に渡って諸山を巡り、曹洞宗禅師の天童如浄より印可を受ける。天福元年(1233年)京都に興聖寺を開くが後に越前に移り、寛元2年(1244年) 傘松に大佛寺を開く。寛元4年(1246年) 大佛寺を永平寺に改め、宝治2-3年(1248-49年)、執権北条時頼、波多野義重らの招請により教化のため鎌倉に下向する。建長5年(1253年) 病により永平寺の貫首を弟子孤雲懐奘に譲り、京都で没する。

 永平寺2世孤雲は道元が日ごろ大衆に語った法語をまとめた『正法眼蔵随聞記』を著し、道元の教えを記録し広めることにつとめた。道元の死後、遺風を守ろうとする保守派と、衆生教化のため法式も取り入れようとする開放派の対立が表面化する。文永4年(1267年)徹通義介に住職を譲るが、両派の対立が激化(三代相論)したため文永9年(1272年)孤雲が再任する。弘安3年(1280年)孤雲が没し徹通が再任するが内部対立を収拾できず、永仁元年(1293年)永平寺を出て大乗寺を開山する。

 永平寺は4世義演の晋住後は外護者波多野氏の援助も弱まり寺勢は急激に衰えた。一時は廃寺同然まで衰微したが、5世義雲が再興し現在にいたる基礎を固めた。徹通の弟子瑩山紹瑾は1321年能登に總持寺を開山し、南朝後醍醐天皇より「日本曹洞賜紫出世之道場」の綸旨を得る。応安5年(1372年)、永平寺も北朝後円融天皇から「日本曹洞第一道場」の勅額・綸旨を受ける。總持寺開山瑩山紹瑾は弟子に恵まれ四哲と呼ばれた逸材を輩出した。四哲の一人峨山韶磧も優れた弟子に恵まれたが、高弟の一人通幻寂霊も通幻十哲と呼ばれる優れた禅僧を輩出し、教線の拡大に寄与した。

 峨山韶磧の弟子無底良韶は貞和4年(1348年)、東北地方初の曹洞宗寺院として正法寺を開き、通幻寂霊の弟子石屋真梁は西国大内氏の庇護を受け応永17年(1410年)大寧寺を開き、六百数十ヶ寺に及ぶ末寺を得て「西の高野」と称えられた。

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