当山のご案内

普廣寺のはじまり

普廣寺のはじまり

 文亀四年(1504)当村深沢城主村山安芸守の開基、曇英和尚(群馬県群馬郡白井双林寺三世宝光隻包悍巨)の開山である。また一書に、明応二(1493)上杉定正開基とある。始め家近に建立、後現地に移した。また。一書に、元亀年間北条城主毛利家中興と記されている。四世竜山文経禅師は、水上大光寺、濁沢泉福寺の祖、八石山善根城の怪火を鎮め、京都で雨乞いをして功があり、天文十七年(1548)常会の勅許を蒙った。三十三世洞水覚山師は、刈羽郡矢田村石黒家の出、高僧にして現堂の再建者である。安永年中焼失、天保二年(1831)五月二十六日炎上、明治十九年六月十九日三度炎上、明治二十六年に再建されている。寛永元年松平越後守より、高七石四斗四升弐合寄進、天和三年検地の際、除地一七石七斗三升八合附与の処、明治七年返上した。当寺は常法憧地であるが、罹災のため古文書がないのは非常に残念である。

当山と星見天海禅師

禅師

 越後の名僧、平井の天海禅師として知られる星見天海老師は、天保4年(1833)刈羽郡(現柏崎市)南条村の星野治兵衛の三男として生まれ、幼名を万治と称した。天保13年8月、刈羽郡平井村福勝寺の俊龍和尚から得度を受け、名を蟠龍と改めた。弘化4年夏、普廣寺の三十世剛轉和尚の常恒会に入り修行。文久元年(1861)29歳の時、金沢天徳院の奕堂禅師の門に入り、数年間行脚僧としての修行を積む。明治3年11月福勝寺の住職となる。この時38歳。その後、柏崎町香積寺に転住、同15年には中蒲原郡蛭野村慈光寺の住職となる。同18年53歳の時、大本山總持寺貫首の特別推挙で関東随一の名刹、大雄山最乗寺の滝谷琢宗禅師の後を継いで独住第4世となる。同20年曹洞宗大学林総監、同22年曹洞宗大会議幹事となる。61歳の時、内務大臣井上馨から両本山分離の調停を依頼され、解決に尽くす。同34年石川素童禅師に後席を依頼し山を下りる。同45年高崎の向雲寺にて病に倒れて後、福勝寺に戻り療養をしていたが、翌大正2年5月遷化された。
 天海禅師の門を叩いた学徒、信者、得式の弟子、その数は数千人に上るといわれている。

当山について

本堂・境内
宗派 曹洞宗(そうとうしゅう)
山号 神興山(しんこうざん)
寺名 普廣寺(ふこうじ)
本尊 釈迦牟尼仏坐像
開山 雙林寺三世 曇英恵應禅師
開基 深沢城主 村山安芸守正勝公
開創 1504年
本寺 群馬県渋川市 最大山雙林寺
末寺 安住寺・寿慶寺・花栄寺・大光寺・周広院・福勝寺(以上、柏崎市内)
繁慶寺(長岡市)
泉福寺(上越市)
円明寺(魚沼市)
潮音寺(小千谷市)
正雲寺・水月庵(廃寺)

当山の寺宝

勅文

勅文

馬頭観世音菩薩

馬頭観世音菩薩

 当山に祀られてある馬頭観世音菩薩は、大正六年に江部忠作さんが寄進したものであるが、以前は家近の「あぶらや」に安置されていたものである。
 今は家も絶えたが、あぶらやの主人福治さんは信心深い方であった。その先祖は常に観世音菩薩を念じていたところ、ある夜夢に、おごそかな雲の中から聖者が現われ、馬に乗って家に飛込んだので有難く拝んでいたところで夢が覚めた。翌朝身を清め燈明をあげて家族一同に話をし、不思議に思っていたところ、ある日、どこからか道者が来て宿を乞うた。心待ちしていた客を迎えたような気で宿を貸して、先ごろの夢の話をしたところ、その道者は、「馬来の観世音は、我、安置奉る馬頭観世音是れ也」と笈(おいばこ)より恭しく仏像を出し、「この地は観世音の霊地である。一宇を建立して安置されよ」と馬頭観世音ならびに二種の宝物を授け、いずれかへ立ち去った。岡田家では一宇を建てて祀ったところ、みたらせが川のように湧き出て、近郷近在から信者が集った。産婦、乳不足の者の参詣者に霊験あらたかだった。
 しかし、あぶらや当主福治さんは東京へ移住することになった。
 そこで縁者の江部忠作さんが譲り受け、自分の家に安置していたが大悲の誓願を衆生に及ぼすために、発願有志と協力して、当山に寄進したものである。

石幢六地蔵

石幢六地蔵

 下部から基礎・竿・中台・龕部・笠・宝珠と積み上げた重制石幢で全高167cm。
 竿にのる中台から六面幢となって、ふくらみやくびれの厚い蓮弁で各角を支え、龕部に六地蔵が高肉で掘り出されている。
 六地蔵の石幢が造られるのは近世前期の明暦ごろからで、本石幢は比較的早い時期のもの(元禄16年、西暦1703年)であり、県内でも作例が少ない貴重な石造遺物である。

般若心経残欠

 大般若経600巻の一部で妙法蓮華経と同様に紺紙金文字である。
 大般若経は、中国唐代の僧 玄奘が漢訳した経典であり、仏教の真理を体得して、これをすべての人々に活かそうと励む菩薩の最も重要な実践徳目である般若波羅蜜(智慧・到彼岸)の義を説いた諸経典を集成したものである。16の章に分かれ、仏教の基本原理である空観思想を説いている。
 妙法蓮華経と共に残されていることから見て、同時代に書写されたと推定される。

妙法蓮華経

 妙法蓮華経は8巻28品からなり、前14品は諸法実相・二乗作仏を説き、後14品は久遠実成を説き明かしている。普廣寺に残っているものは、その中の巻第6章第16品寿量品の一部で紺紙に金泥で書写されている。
 このような経典を紺紙金字経と言い、中国で発達した。後に経の上下や中に絵を描いたり、金銀の切箔を散らしたりする装飾経へと発展する。装飾経が極点に達したのは、日本の平安時代で、鎌倉時代まで行われた。平安時代中期に成立した「栄華物語」に紺紙金字経や装飾経が記されていることから、この頃日本に於いて盛んに行われていたことが窺える。
 当山のものは平安時代末から鎌倉初期のものと考えられるが、伝存由来などは不明である。

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